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信濃英傑佐久間象山大志伝 巻之一、巻之二
シナノエイケツサクマショウザンタイシデン
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長野市
1882
明治15年
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清水 義寿/編
シミズ ヨシヒサ
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この本は、士族清水義寿が編修し、自由民権運動家市川量造により出版された。文化8年(1811)誕生。幼時から文事・剣道・砲術を学び、17歳で諸国を遊歴。のち8代藩主幸貫の近待役につくが、出府し、林大学頭に入門。佐藤一斎に歴史学を学ぶ。長じて憂国の志気盛んになり、蘭学や砲術を学び、長崎で西洋医学を学ぶ。江戸に帰って藩主に海防策を献じたが、幕府への上書は実現せず、いったん帰郷。目付役就任後、再度上京。その名声を慕いて、集まる人々に和漢洋の塾を開く。勝鱗太郎・吉田松陰などがいた。なお憂国の情止みがたく、度々海防策を幕府に上書するも実現しなかった。嘉永6年(1853)、アメリカ太平洋艦隊の来航は大きく日本と象山の運命も変える。翌年、日本は開港するが、下田港に停泊するアメリカ軍艦に吉田松陰の密航事件がおき、これを契機に象山もまた逮捕され、松代での蟄居を余儀なくされた。禁固中も洋書を読み、科学を試み、諸国の有志が彼を訪れた。 文久2年(1862)、ようやく禁固をとかれ、翌年、朝廷に召され、京都でも攘夷鎖港説が渦巻く中で、開港説を主張して止まず、7月11日山階宮からの帰途、三条木屋町において浪人に暗殺された。時に54歳。 巻末には、天保13年冬の藩主幸貫への上書が掲載される。
佐久間象山大志伝
サクマショウザンタイシデン,サクマゾウザンタイシデン,シナノエイケツサクマゾウザンタイシデン
巻之一,巻之二
N289/サクマ/75
東筑摩郡北深志町
市川量造
1882
6,2,38,57丁
1923
武居 用拙/序
タケイ ヨウセツ
武居 彪,文甫,清記,拙蔵
1892
一松斎 年雪/画
新井 年雪
鶴巣/書
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県立長野図書館