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2
5
義仲勲功図会 前編 巻の2
ヨシナカクンコウズエ
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1833
天保4年
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山田 案山子/作
ヤマダノ カカシ
26
天保4年(1833)発行。作者は難波(大阪)の文人好花堂主人と称した山田意斎。2巻は駒王丸(義仲)が生まれる前の話から始まる。京都や六波羅が中心の内容で主に「保元物語」「平治物語」の内容である。 その頃源氏の棟梁の六条判官源為義と言う武士がおり、内裏側でも新院側でも彼に味方をしてもらいたく、双方から宣旨、院宣が彼のもとにきていた。新院側は左京大夫藤原教長に命じて、新院側の味方をするように説得した。この軍が最後と思った為義は源氏伝来の鎧を、子達に分け与え敵側にいる義朝にも、初衣(うぶきぬ)の鎧を義朝に贈る。その後「保元の乱」により新院方(崇徳院)は敗け為義は息子の義朝に討たれる。崇徳院は流刑地で崩御した。その後保元の乱で勝利した後白河天皇は新制を始めた。側近の信西入道は力をつけ、今までいた貴族などから反感をかっていた。そして平治の乱がおき、源義朝は藤原信頼に組みして後白河上皇を大内裏で監禁、藤原通憲を殺害し一度は権勢を握るものの、熊野から引き返した平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も暗殺される。その後、義朝の長男の源義平(悪源太)は平清盛親子を討とうと秘かに六波羅や京都に潜伏していたが難波二郎経遠に見つかり、六条河原で討たれる。義平は斬られる屈辱につい愚痴がでる。「何をいまさら」と難波二郎経遠が太刀を抜いて斬ろうとすると「上手く斬らないと顔にくいつくぞ。今すぐ食いつかなくても百日中に雷となってお前を蹴殺すぞ。」と言い、手を合わせ念仏を唱えながら斬られた。その後、義平を斬った難波二郎経遠が福原へ行った帰り道、摂津国昆陽野まで来た時、雷が激しく鳴り出し雷が落ち馬と共に難波二郎経遠が蹴殺されてしまった。都にも六波羅にも雷がおびただしく鳴り落ち多くの人々が亡くなってしまった。清盛は貴僧、高僧に命じて大般若経を読ませたところ、たちまち雷は鎮まった。(この悪源太(源義平)は領地争いにより、駒王丸(源義仲)の父親を討った人物である)
木曾義仲勲功図会,勲功図会
キソヨシナカクンコウズエ,クンコウズエ
前編 巻の2
N930/323/2
石倉堂
1833
33丁
大和屋圭蔵,意斎,好花山人,好花堂,得翁斎,野亭,好花堂野亭,山田野亭,山田意斎,山田得翁斎,山田意斎叟,好花堂主人,好華堂主人,好華堂野亭,好華山人,野亭散人
ヤマトヤケイゾウ,イサイ,コウカサンジン,コウカドウ,トクオウサイ,ヤテイ,コウカドウヤテイ,ヤマダヤテイ,ヤマダイサイ,ヤマダトクオウサイ,ヤマダイサイソウ,コウカドウシュジン,コウカドウヤテイ,コウカサンジン,ヤテイサンジン
1846
葛飾 北馬/画
カツシカホクバ
有坂, 蹄斎, 蹄斎北馬,有坂北馬,有坂蹄斎,北馬,有阪蹄斎,光隆,五郎八,駿々斎,駿々亭,秋園
アリサカ,テイサイ,テイサイホクバ,アリサカホクバ,アリサカテイサイ,ホクバ,アリサカテイサイ
1844
1
1
県立長野図書館