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02BK0103515425
2
5
義仲勲功図会 前編 巻の1
ヨシナカクンコウズエ
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1833
天保4年
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山田 案山子/作
ヤマダノ カカシ
26
19世紀に入ると、『東海道名所図会』などの図会ものと、中世の『平家物語』などの軍記物語とが結びついて『平家物語図会』などが生まれてきた。その延長線上に天保4年(1833)の『義仲勲功図会』が考えられる。 本来、『義仲勲功図会』は、前編5巻・後編5巻、10巻10冊からなる読本(よみほん)であるが、ここには前編5巻しかない。作者は難波(大阪)の文人好花堂主人と称した山田意斎である。 『図会』は、駒王丸(木曽義仲)の信濃での成長過程と京都の動向を絡ませて展開する。 巻1は、発端の「大倉谷合戦之図」から始まる。当時、源氏の棟梁源為義の次子義賢は、京での職を辞し関東に下り、武蔵国大蔵(埼玉県比企郡嵐山町)で勢力を拡大していた。 久寿2年(1155)長子義朝の長男義平は大蔵の義賢を急襲し、義賢は死亡。次子駒王丸は辛うじて死を免れた。義平は畠山重能にその探索を命じたが、重能は駒王丸を助命し、斉藤実盛に後事を託した。実盛は駒王丸とその母を木曾の武将中原兼遠に託した。 一方、京の都では、鳥羽天皇のあと寵姫(ちょうひひ)美福門院の子が近衛天皇として即位するが、間もなく没し、そのあと崇徳天皇の子重仁親王が即位するのではなく、弟が即位して後白河天皇となった。不満が募る崇徳上皇側に、摂関家の頼長、源氏では為義、為友ら、平家では忠正、その子時盛らが馳せ参じた。 後白河天皇側には、摂関家では忠通(頼長の兄)、源氏では義朝・義康・頼政ら、平氏では清盛・盛兼らが味方した。保元の乱(1156)である。戦いは1日で決着し、勝者の清盛は叔父忠正と嫡子らを斬らせ、義朝は父為義と弟頼賢らを討たせた。頼長は戦場での重症がもとで死亡した。崇徳上皇は愛媛松山へ配流され没した。このあと、清盛と義朝との間で覇権をめぐって争いが起き、藤原信頼は不満をもつ義朝と、信西は清盛と結びつき、平治の乱(1159)が起きた。信西は刺逆され、義朝側は熊野詣から引き返した清盛父子に破れた。義朝は、清盛配下の長田長到(ながむね)により尾張で謀殺された。義朝長男義平は、一人逃れて清盛の首を狙ったが、平家に捕らえられ、やがて六条河原で惨殺された。その後、義平の悪霊は平家側を悩ましたという。
木曾義仲勲功図会,勲功図会
キソヨシナカクンコウズエ,クンコウズエ
前編 巻の1
N930/323/1
不明
石倉堂
1833
6,28丁
大和屋圭蔵,意斎,好花山人,好花堂,得翁斎,野亭,好花堂野亭,山田野亭,山田意斎,山田得翁斎,山田意斎叟,好花堂主人,好華堂主人,好華堂野亭,好華山人,野亭散人
ヤマトヤケイゾウ,イサイ,コウカサンジン,コウカドウ,トクオウサイ,ヤテイ,コウカドウヤテイ,ヤマダヤテイ,ヤマダイサイ,ヤマダトクオウサイ,ヤマダイサイソウ,コウカドウシュジン,コウカドウヤテイ,コウカサンジン,ヤテイサンジン
1846
葛飾 北馬/画
カツシカホクバ
有坂, 蹄斎, 蹄斎北馬,有坂北馬,有坂蹄斎,北馬,有阪蹄斎,光隆,五郎八,駿々斎,駿々亭,秋園
アリサカ,テイサイ,テイサイホクバ,アリサカホクバ,アリサカテイサイ,ホクバ,アリサカテイサイ
1844
1
1
県立長野図書館