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02BK0104072152
2
5
善光寺如来東漸録 巻5
ゼンコウジニョライトウゼンロク
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長野市
1773
安永2年
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粟津 義圭/述
アワヅ ギケイ
26
5 推古朝のとき、諸国大名大番役で奈良に上京した。信州伊那郡宇沼村に本田善光親子3人がおり、この度の役に駆り出されて京上した。在番3年のうち南都の近辺を徘徊し、難波の剣池の辺を通りかかると、水底よりキラキラと光る物が善光の肩に飛びついた。善光、驚き後を睨んで離そうとしたが、「汝恐れること無かれ、われは天竺に在れば月蓋であり、百済にあれば聖明王である。我を東国に連れ行くベし」と申された。昼は善光が本尊を、夜は如来が善光をおぶり、伊那郡宇沼村の善光が宅に到着した。善光は如来を新しい搗き臼に安置したが、のち草堂を造ってそこに如来を遷した。しかし、すぐにまた如来は、元の臼に戻ってしまった。ときに如来、伊那郡にあること41年、皇極朝のとき「我を水内郡芋井郷に移せよ」とのたまわった。一宇を建立し、ここで朝夕給仕を申し上げた。翌年のこと、本田善光は一子善佐を急病で失った。父母の悲歎は大きく、善光は如来にさまざまと歎いた。そこで、如来は五色の光を放ちて善佐の頂を照らし、地獄の苦から解き放した。そのとき、傍らを見ると、端正美麗な女性、皇極天皇が囚われていた。善佐、このことを如来に言上し、共に助けられたのであった。蘇生した皇極天皇は、善光親子を召し、善佐を信濃守、善光を甲斐守に任命した。以上が善光寺如来の東漸の記録である。
宣唱東漸録
センショウトウゼンロク
巻5
N181/13/5
平安(京都)
菊屋喜兵衛
1773
1,19丁
諦住,義圭,法明
テイジュウ,タイジュウ,ギケイ,ホウメイ
1799
1
1
県立長野図書館