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02BK0104072293
2
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善光寺略縁起
ゼンコウジリャクエンギ
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長野市
1772
明和9年
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慣光
27
この善光寺縁起は、略縁起で、明和9年(1772)淨円寺の釈氏慣光によるものである。「序」があり、そのあと「善光寺略縁起」・「百済国御利益」・「善光回縁之事」・「善佐回縁之事」の4項目に分かれる。 信仰の浅かった印度のビシャリ国の月蓋長者は、釈迦に救済された。御礼に、一光三尊の阿弥陀如来を竜宮城のエンブダゴンで造り、まもなくこの世を去った。この如来は百済に渡り、お告げにより日本へ渡御した。日本では、この如来を信仰したが、やがて熱病が流行った。異国の神を受け入れた祟りだとして、物部尾輿・守屋父子は、仏を難波の堀江に投げ入れた。 信州伊那郡麻績の里に本多善光がいた。推古朝のとき、信濃国司は大番役で上洛したが、善光・善佐親子も随行した。暫く都に留まった親子が、難波の堀江に通りかかったとき、水底より光る如来が善光の肩に飛び移った。善光は如来を背負い信濃に帰り、家の臼に如来を安置したが、お告げにより、水内郡に遷座した。皇極朝のとき、善佐は死亡した。父母の歎きは譬えようもなく、嘆きが天に通じたのか善佐は水内の郡で蘇り、父母の喜びは絶頂に達した。善佐は都に召され、信濃国司に、父の善光は甲斐の国司に任命された。 その後、皇極天皇は御堂の建立を願い、善光親子はそれにかかわった。材木は奇瑞により降臨して、建立に合力し、定額山善光寺の創立の運びとなった。
善光寺縁起
ゼンコウジエンギ
N181/25/
不明
慣光(手写)
1772
44丁
1772
1
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県立長野図書館