1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
Loading...
引用機能は画像の任意の領域を切り出して、URLを生成する機能です。
画像上で切り出す領域を選択してから、「引用する」を選択してください。
輝度等の変更した値は引用には反映されません。
上図を登録します。
よろしければ「登録する」をクリックしてください。
登録に成功しました。
以下のURL・HTMLタグから画像にアクセスできます。
02BK0104131495
2
5
信州川中島五戦実記
シンシュウカワナジマゴセンジッキ
System.Int32[]
長野市
1825
文政8年
System.Int32[]
不明
22
信州川中島五戦実記は、巻1から巻10の目録からなる。 巻1は、1.武田晴信(信玄)と上杉景虎(謙信)の戦始め、2.武田信玄が山本勘助を召抱えた経緯、3.上杉謙信の由緒にふれる。 巻2は、1.謙信が兄晴景の為に剃髪した経緯にふれ、両者の最初の川中島合戦と、2.両者の2度目の戦いにふれる。 巻3では、武田信玄と上杉謙信の両陣容にふれ、3度目の戦が大塚を中心におこなわれ、このときの武田側武将真田幸隆の奮闘にふれる。 巻4では、武田信玄と上杉謙信両将の軍令が厳しく、上杉方の猛将鬼小嶋弥太郎勝忠と鬼山吉小次郎頼長両人の勇猛ぶりにふれる。 巻5では、謙信と信玄両将の謀を互いに明察しあう。永禄2年(1559)には、謙信は信玄との対峙の隙をぬって上洛する。 巻6では、謙信の上洛の留守に、武田がわは越後に向かって発向した。その知らせに、謙信立腹して急遽越後に帰国の次第となり、総勢1万3千余人を信州へ出兵し、西条山に陣を構える。是を聞き、信玄は2万5000人を海津城に引き入れた。 巻7では、永禄4年(1561)の決戦であるが、信玄は兵を分けて西条山に発向させるが、謙信はこの謀を未然に察知して、川中島に構える武田軍を急襲する。 巻8では、両軍入り乱れての合戦を描き、巻9では、山本勘助はじめ武田諸将と上杉諸将の奮闘振りを描く。 巻10では、この戦いで死亡した武田方は山本勘助・武田信繁など39人の武将であり、2872人の兵卒であった。手負は2千余をあげる。上杉方は侍30人、雑兵2000人余であったことを記し、この5度にわたる合戦の総括をおこなう。
信州川中島五戦記,信州川中嶋五戦記
シンシュウカワナカジマゴセンキ
N209.4/24/
不明
下村秀就(手写)
1825
150丁
1
1
県立長野図書館