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覚(黒姫山論写) 柏原・野尻・熊坂→片岡権右衛門
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1691
元禄4年
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黒姫山麓は、古くから山元の村を始め善光寺平等里方の村々が採草等に入り込み、山元の村と度々争いが生じていた。慶安2(1649)年にも山元の柏原・野尻両村と里方の間で争いが起こり、訴訟沙太となって幕府の役人が調べに来た。この書状「覚」は、その時の取調べの次第を、後年の元禄4(1691)年に書き記したものである。内容は、慶安2年5月17日に幕府から宮城越前等6人の役人が来て柏原に宿泊、原告(山元)被告(里方)双方を呼出して取調べが行われた。両者それぞれの主張が糺され、実地見分が行われた上で、宮城越前の意向として、山元は3か村、里方は73か村、大の虫を助けるために黒姫山の東の方を入会(共用地)にすると裁決された、と経過が記されている。元禄4年6月4日付、柏原・野尻・熊坂3村役人連名で飯山藩片桐権右衛門宛に出されている。なお「黒姫山の峰から東は、巣鷹山を除き前から利用している村はそのまま利用してよい、その他の村々は1人も入ってはいけない」という慶安2年の裁許状が付記されている。元禄4年には、黒姫山入会村と戸隠村との間で紛争が起こり訴訟になっていたので、この文書はその参考のために提出されたものと思われる。
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県立長野図書館