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覚(通人足大風雨にて立戻賃銭) 平助→中村六左衛門・和田七郎右衛門・石田津右衛門
オボエ(トオシニンソクオオカゼアメニテタチモドリチンセン)
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1859
安政6年
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安政6年(1859)10月、金沢藩主は参勤のために江戸へ出発した。ところが途中の越後で、突然大風雨となったため、予定を変更して臨時に名立宿へ宿泊することになった。そのため、沿道の名立宿・長浜宿(ともに上越市)などで待機していた通し人足たちは、名立宿まで立ち戻らなければならばかった。これは、戻った人足たちのいわば戻り賃である。立ち戻りの距離は延べ140里である。1里1人につき77文あてで、計10貫780文、金にして1両2分2朱ト705文になる。この覚え(受取)は三日市(富山市)の平助が金沢藩の通し人馬請負人の中村六左衛門ら3人に対して書いたものである。平助は六左衛門らの下請負人で、この金は平助を通じて人足たちに支払われたのである。「但し、6貫200文」とあるのは、金1両を銭に交換する場合の銭相場である。中村六左衛門(柏原)・和田七郎右衛門(荒井)・石田津右衛門(野尻)の3人は、金沢藩の通し人足の請負をしていたが、その区間は、参勤の場合は市振から新町(あらまち・長野市若槻)まで、帰国の場合は牟礼宿から越中境までを請け負っていたのである。
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県立長野図書館