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03OD0621500200
3
20
(柳島家)由緒書上 写
ヤナギシマケ ユイショショジョウ ウツシ
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更級郡
1872
明治5年
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柳島嚋之助
ヤナギシマトウノスケ
この「由緒申上」は、215-3の「由緒御書上ヶ控」を整理して書き上げたものである。初代柳島伊勢守正光は宇多源氏佐々木の嫡流で、累代近江国(滋賀県)箕作に居城し近江源氏と称していたが、浅井・朝倉に押領され、駿河(静岡県)富士郡加嶋之庄柳島之郷を領したので、改姓して柳島内蔵介源正光としたが、甲斐(山梨県)国主武田晴信の招きにより、柳島伊勢守としていたが、越後の上杉謙信と合戦し永禄4年(1561)討死。天正10年(1582)、武田家没落後は柳島に郷士として存在し、2代内蔵介重庸、3代太郎左衛門政雄を経て、4代六左衛門政徳の代に松代藩初代藩主信之から郷村取締役を仰せつかる。5代柳島七之丞は承応3年(1654)、知行百石を預けられた。6代甚五郎、7代六左衛門政方、のち瀬左衛門と改名、8代太郎左江門政寄,9代理一,10代喜代三政綱となり、明治3年(1870)演兵入学仰せ付けられた。なお、理一の二男擣之助政纓は、慶應4年(明治元年)3月甲州へ出兵の命令を請けている。なお、上田城主真田昌幸、また上州新田岩松万次郎徳純、小松中納言利常、筑前守光高、筑前守中納言利常からも御書を受けていることが明記されている。以上のことを壬申(明治5年)8月に丹波島村郷士柳島喜代三と後見人の伯父柳島嚋之助が書き上げる。
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長野県立歴史館