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03OD0621500701
3
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姑捨山之考 2冊(同本) 写
コステヤマノコウ ウツシ
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更級郡
1855
安政2年
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菅原真楯
スガワラマサタテ
この『姥捨山之考』は、安政2年(1855)8月、松代藩士菅原真楯(「文久年中 真田幸民家中分限帳」などには、其の名が見えない)が冠着山に登り、周辺の地理や伝承や古歌などを考え合わせて著したもので、全部で10丁である。序も後書もなく、大和綴じのあっさりした体裁である。その最初の文言は、「吾科野の国なる姥捨山ハしも古き時より雲井なすいと高く(中略)貴き方々のみ歌にも詠み出ださせ給ひ、呉竹の世々の風流人等の言の葉にも多く聞え候へるままに其名高かるハ秋の月さやかに著るくぞ有ける。さるをおのれ考ふるに古へに其所といへりけむハ更級のあなたなる冠着の高嶺になむあるべくと思へ定めッ(後略)」である。姥捨山は古代・中世を通して冠着山であることを『後撰集』・『拾遺集』・『詞花集』・『続千載集』などに掲載されている古歌によって明らかにし、その冠着山が当時は更級郡に属していたことを『倭名抄』などにより証明している(矢羽勝幸『姥捨山の文学』参照)。
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長野県立歴史館