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大塔物語 古暮本 嘉永四刊成沢寛経影写本
ダイトウモノガタリ コボボン カエイシカンナルサワヒロツグ エイシャボン
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更級郡
1851
嘉永4年
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成沢弘経
ナルサワヒロツネ
この『大塔物語』の底本は、諏訪神社下社大祝(おおほうり)金刺家にあった尭深書写の蔵本で、これを上田の成沢寛経が嘉永4年(1851)に復刻した。体裁は、表紙に『大塔物語古暮本』とあり、45枚の袋綴りの和本で、巻頭には加藤維藩の序があり、巻末には所蔵者今井信古と原昌信の跋文がある。国人層の反抗のため、信濃統治に失敗した室町幕府は、従来の守護小笠原氏を起用せざるを得なく、応永6年(1399)秋、長秀を信濃守護職に任命した。翌年、長秀は室町3代将軍足利義満の御行書(みぎょうしょ)を奉じて善光寺に入り、一国成敗の政務を行なおうと,北信濃の村上・高梨・井上・須田・島津などの諸士及び諏訪・佐久・小県郡の諸氏、大文字一揆と称せられた仁科・春日・祢津・香坂らの諸氏を招集した。このときの長秀の行為が非礼であり、諸氏の反感をかった。同年9月、更級郡布施郷で小笠原勢と村上・仁科両氏を中心とする連合軍との間に紛争が生じた。長秀の軍は辛うじて塩崎城に逃げ入ったが、その一隊は連絡を絶たれ大塔の古い要害に立てこもり、最後は遂に300余人が討ち死にという結末を迎えた。この合戦を物語体に記された、作者不明の原本を僧尭深が文正元年(1466)に書写したものが本書である(『新編信濃史料叢書』2巻参照)。
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長野県立歴史館