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海津往来
カイズオウライ
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埴科郡
1751
延享8年
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児玉氏隠士
この史料は、「海津往来」と(治田往来)との2編からなる。前者からみよう。松代海津は清野殿屋敷にて、天文6年(1537)武田に属した小山田備中らにより四郡の仕置きがあり、同12年山本勘助の縄張りで松代城ができた。天正10年(1582)織田信長に従う森長可が、続いて慶長5年(1600)森忠政が居城し、というように城主の変遷にふれ、元和8年(1622)之真田の松城入封につながる。高井・水内・埴科・更級四郡のうち195ヵ村を支配する。その内、神社・仏閣造営地は32箇所、高2,948石である。その後は、宿坊・名産・名所・高札の箇所・船渡場にもふれ、信濃10郡や信濃の隣国などにもふれる。続いて、後者の「治田往来」にふれよう。治田は、更級郡治田庄更級郷に属し、中古は埴科郡葛山城主村上義清家臣の桑原左近に属した。天正10年(1582)森長可、続いて上杉景勝領となり、慶長5年(1600)之森忠政、同8年の松平忠輝の支配となる。元和2年(1616)には松平忠昌領となり、川中島領1万石は、その弟長門守領となる。稲荷山・塩崎・岡田・今井・今里・戸部・中氷鉋・上氷鉋の八カ村で、これより稲荷山は桑原の分郷となった。同8年、仙石兵部太夫が小諸より上田へ入部、それに伴い川中島1万石は、上田領となる。同年、上田の真田氏は松城へ入部。桑原・郡・八幡・志川等は松城領となる。宝永3年(1706)、上田の仙石氏は但馬(兵庫県)の出石へ転封となり、代わりに出石の松平氏が上田に入封する。以後、上田藩松平氏の支配となる。鎮守は、桑原村は上建南方刀美神社、稲荷山村は下治田神社諏訪大明神で、恒例の祭礼神事は懈怠なく勤める。寺院は、稲荷山長雲寺、桑原では桑原山竜洞院がある。山々では、冠着ヶ嶽、姨捨山が有名で、昔より月の都といわれ、諸方の好士が時を選ばず登山した。また、八幡宮は当郡の大社であり、応神帝の神霊を祭り、崇敬人の知る所である。また、西の方は峨々たる山中であるが、村々も多く高野・灰原・牧野島などが続く。動植物も豊かで、檜・樅・松・杉などが繁茂し、熊・狼・猪・狐・鹿など、また鷲・雉・梟・鳶などが多数おり、一方耕作は怠りなく、大麦・小麦・麻を刈り、早稲・晩稲・大豆・小豆・ささげ・粟・そばの収穫もある。所によっては、田に藺草を植え付け、畳表・茣蓙にもする。東には千曲川があり鮭・鱒・鯉など漁労もさかんである。また、近年養蚕が盛んとなり、畑に木綿を作ることも夥しく、川中島地方もおなじである。北国に近い故、鯛・鱈・鮭など魚介類の往来もあり、京からの西陣の織物・綾錦などの物流もあり、武州からは鮑・蛤などの移入があり、松前からは昆布などの珍奇な魚介類が入る。延享4年(1747)児玉氏隠士書
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長野県立歴史館