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03OD0621601603
3
20
本藩名士小伝 1~3 写
ホンパンメイシコデン ウツシ
System.Int32[]
埴科郡
1849
嘉永2年
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この巻3には、祢津宮内大輔以下26人の小伝が掲載される。祢津氏は、この巻に7人掲載されているが、その最初に位置づけられている祢津宮内大輔をみよう。祢津宮内大輔昌綱は、晩年一味斎と改めた。父は宮内大輔政直といい、滋野の門葉で、代々小県郡祢津の城主である。武田家に従う。天正の始め、政直は隠居し嫡子の神平月直へ家督を譲り松欧軒と改めた。天正3年(1575)長篠の戦いで没し、弟の右衛門尉信忠の嫡男昌綱を養子とした。天正10年武田家滅亡後は信之とともに徳川家に従い、本領安堵の判物を給わり、徳川家よりは父松欧軒が上州豊岡を給わり、引き続き奉仕した。昌綱はそのまま祢津に在城した。山寺佑五左衛門久富は武田信玄に仕え、その舎弟典厩信繁の組下であった。永禄4年(1561)の川中島合戦のとき、信繁・山本勘助・諸角豊後守らが武田の先陣に進み討死した。この時、信繁の首を上杉側で討ち取り、引き退くところを久富一命を賭して追いかけ首級を取り返した。その後、天正3年(1575)5月の参州長篠で戦死してしまった。行年40歳という。嫡子正左衛門久繁は信之に仕え、寛永14年(1637)師岡源兵衛・大田嘉右衛門らと松代藩奉行となり、御朱印の掟書を賜り、同17年9月没した。
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長野県立歴史館