Loading...
引用機能は画像の任意の領域を切り出して、URLを生成する機能です。
画像上で切り出す領域を選択してから、「引用する」を選択してください。
輝度等の変更した値は引用には反映されません。
上図を登録します。
よろしければ「登録する」をクリックしてください。
登録に成功しました。
以下のURL・HTMLタグから画像にアクセスできます。
03OD0621602400
3
20
(埴科郡)明徳寺文書 3通 写
ハニシナグン メイトクジモンジョ ウツシ
System.Int32[]
埴科郡
System.Int32[]
この文書は、慶長8年(1603)から元和2年〈1617〉まで松城18万石を支配した松平忠輝の明徳寺に宛てた寺領寄進状である。忠輝は江戸に在城したため、幕府の実力者大久保長安を付家老的な補佐役として任命し、また、皆川広照(後の飯山城主)をもり役としたため、ここに、名を連ねている4人の部将(松平筑後守信直・山田隼人正勝重・松平遠江守吉成・松平大隅守重勝)は、なんらかの形で大久保長安と関係のある人々と考えられる。慶長15年(1610)9月、埴科郡関屋(長野市)の明徳寺にたいして、松平忠輝の老臣松平大隅守重勝・松平筑後守信直・鱸刑部少輔成世・山田隼人正勝重・花井遠江守吉成らが山林竹木伐採や甲乙人等が狼藉すること、諸殺生をしてはいけないことの3点を禁制として掲げた。慶長16年(1611)9月、埴科郡関屋の明徳寺にたいして松平忠輝の付家老大久保長安は寺領20石を寄進した。
1
1
長野県立歴史館