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信綱寺古文書 写
シンコウジコモンジョ ウツシ
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小県郡
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明治維新にあたって、高井郡須坂興国寺末小県郡上田領横尾村(上田市真田町)信綱寺の旧記を取り調べて書き上げたものである。信綱寺は、越州永平寺16世孫の高山順京和尚草創の地で、真田信綱の位牌所として、天正3年(1575)真田昌幸が建立した。その際の印書3通、慶長6年(1601)真田信之の境内山林共26貫300文の寄付証書1通、北御方印書2通并禁札1紙の7通は以前に認め申し上げた。天明7年(1787)寺格昇進につき法幢料として河原切起田地4短7畝余を下し置かれた。右の御恩徳により、天明7年から明治元年(1868)まで隔年に江湖興行を行なってきた。なお、真田家の由緒、天正・文禄・慶長・享保・弘化度の御朱印・什物・寺由緒・殿堂・門葉・山林田畑・惣境内を認めて申し上げる。文禄3年(1594)の真田昌幸の「位牌所として建立につき寺役容赦状」、天正13年(1585)の昌幸の「先規の如く龍雲寺領を信綱寺へ寄進状」、また年次不詳辛丑8月の信之の「先規の如く寺領6貫300文安堵状」、年次不詳10月の「諸役御免状」、享保2年(1717)の本堂再建の節、開基信綱の御廟の下より掘り出された鎧1具があり、弘化3年(1846)8月幸貫が御廟参りの節、鎧箱を寄付されたが、その鎧箱等があり、その他の代々の御寄付物の名は略す。寺内誌として「山号―大梅山」、「寺号―信綱寺」、「斉号―好雪翁」、「開山-高山順京」、「開基―真田信綱」を記載する。殿堂として、2間・7尺の山門、11間・9間の仏殿、空地の禅室、空地の衆寮、6間・4間半の霊所堂、4間・2間半の方丈等16の塔頭をあげる。門葉として、直末に養泰寺、孫末に大永寺等3寺、平僧末に徳翁庵・少林庵をあげる。明治2年正月、信綱寺は惣境内として山林田畑共18町余等を御奉行所に書き上げた。
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長野県立歴史館