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03OD0622101500
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改正四宮大権現略縁起 写
カイセイシノミヤタイケンゲンリャクエンギ ウツシ
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小県郡
1783
天明3年
成
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祢津四宮大権現は、56代清和天皇第4皇子一品式部卿南院宮と号し、御母は二条后高子藤原長良の娘なり。その子菊宮の母は、嵯峨帝第4皇子恒康親王の女なり。光孝帝遷座し、仁和4年(888)に正三位信濃守に叙任され、この国に下向し、延喜2年(902)4月、父の貞保親王崩御し、祢津の館から戌亥の山頭に葬られ、同年滋野天皇と贈与した。その後、延長7年(929)勅命で四宮大権現と尊崇した。菊宮の子善淵王を正三位権大納言に叙し、滋野姓を賜り、信濃国司となり、海野・祢津・望月三家の鼻祖となった。但し、滋野は昔よりこの地に住居している。さて、祢津は信濃の京と一国の土俗が言い伝えている。南院宮を滋野天皇と贈号し、御屋形も内裏の如く紫宸殿・清涼殿にて御造営をしたので御皇居と言い伝え、祇園・住吉山王の社を勧請し、諸寺・諸山の立神事・祭礼等万平安城の如く、町家も八千余軒を連ね、方一里余になる。(中略)また、祢津祇園祭は天禄3年京都と同年に8代平権太夫重道、京都を移して始めた。しかし、永禄・天正の兵火で逆乱起こり、飢饉・疫病打ち続き、生民とたんに陥り、信濃の京と謳われた祢津の村も、宮殿楼閣も荒廃し、講堂も礎のみ残り、宮殿跡には荊棘根をまとい等の状況であった。そのような訳で宝永3年、信州祢津権現の建立については、以上のべた荒廃故不分明の段言上があった。のち、正徳元年(1711)6月、世の混乱渦を巻く中で、大音声があり、「朕は是四宮権現也、父祖5代、その家にありて朕が社、かくのごとく退廃し、造立せんとする心もなく、朕が山に稲荷社を立て、朕を蔑視すること浅からず」として悶絶した。その夜から山陵に火の玉の如きなるもの飛びきたった。このこと、村老に話し、急遽黒木の仮殿を建立した。その内、誰触れるともなく、四宮大権現の降臨したまう、と参詣の群集雲霞のごとくであった。是は、正徳元年6月の事であった。今年、天明3年(1783)3月始めより、その光が一夜に両3度に及んだ。是に寄り下宮義昌、数々の不敬の罪を許し玉へと、再拝頓首した。
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長野県立歴史館