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コンテンツ情報

詳細

資料コード:

03OD0622200201

施設番号:

3

資料種別:

20

タイトル:

佐久郡其儘草 写

タイトル(ヨミ):

サクグンシママソウ ウツシ

サブタイトル:

サブタイトル(ヨミ):

分野:

System.Int32[]

場所(市町村名):

佐久郡

場所詳細:

緯度:

経度:

制作年(西暦):

制作年(西暦)詳細:

制作年(和暦):

制作年(和暦)詳細:

時代:

System.Int32[]

時代詳細:

制作者:

制作者(ヨミ):

大きさ(㎝):

資料解説:

「佐久其侭草一」この書は、睡心亭小宮山五丈の編集による。鎌倉幕府の公式記録『東鑑』に、大井庄八条院御領と伴野庄上西門院御領が記載され、その伴野庄の地頭に小笠原長清を記す。その地頭の記録は、建久8年(1197)から文明16年(1484)迄の288年間は、略される。文明16年に、宇当坂鍋蓋城ができ、城主は大井光照。長享元年(1487)には本城へ移る。大永5年(1525)卒。郡主は村上義清であるが、天文5年(1536)より永禄3~4年(1560~61)に至り武田の旗下となる。その城主は飯富兵部虎昌。天文・永禄の内山城主は小山田昌行で、天文11年海尻城を村上方が攻める。城主は小山田昌辰で、のち海津城に移る。城主は春日弾正昌信で、のち小諸城に移る。後には、山本勘助と馬場景政が縄張りして海津城を築く。城主は武田信豊で、城代は下曽根覚雲斉である。下曽根は武田信豊を暗殺した件で織田信長に咎められ、追放される。春日昌信から24年間は与良以下7人が加番として勤め、城番頭は芦田下野守信守と道家彦八郎正栄。道家は滝川左近将監の甥で、のち、城代は芦田右衛門佐信蕃。天正10年(1582)、郡主は北条左京太夫氏直、城代は大道寺駿河守政繁となる。この年、小田原の北条は佐久郡の7つの城を落とし、一郡を平定。のち、城主は松平修理太夫康国となる。依田信蕃の長男で、その功を家康に賞され松平姓を賜わり、小諸を守る。のち、上州石倉城にて横死。そのあと、城主3万石は信蕃2男の松平康勝となる。天正14年9月、上州藤岡に移る。のちの城主は仙石秀久。没後、その子忠政が城主。大坂の合戦で功があり、6万石に加恩のうえ、上田へ移る。元和2年(1622)から小諸城主は駿河大納言忠長。その後、松平憲良が寛永元年から正保4年迄城主。以下「小諸御城主則不載而館林公ヨリ御本丸御代官ニ移ル」とあり、小諸城主の記載はなく、本丸代官の記載はあるが、省略する。この後、「御役所之事」で、佐久郡内の幕府領の陣屋についての記事があるが省略。以下、「御料御巡見」、「私料御巡見」、「海尻村大槻橋組合村」、「上村山入会村」、「上小田切村山陽原村野入会村」、「八郡村山入会村」、「本間村山入会村」などの入会村が15続くが省略。その後、「四ヶ村用水堰長サ一里余地元上畑村」等の4堰組合の記事も省略。最後に、「付、通荷物等口銭之次第」の記事で、この「佐久其侭草一」は終了する。「佐久其侭草二」最初に、佐久郡田野口村(佐久市臼田)新海神社をみる。①「新海三社大明神神系図伝略」に大巳貴ノ命から親宮与波岐命までの系図の記載があり、続いて永禄8年(1565)の信玄の願書が載る。②新海明神の祭日として正月6日から12月25日まで18の祭日をあげる。その祭日当時の座席も記載され、さらに③「新海三社他へ御順臨幸之事」の記事があり、④「三重塔修復」記事も続く。⑤「新海山神宮寺鐘銘」では、天文12年(1543)の田口左近長能の寄進記事があり、⑥「新海神社を頼朝公建立之由来」で頼朝建立の由来が述べられる。⑦「天正16年12月現在の神領貫取帳」で、合計額を161貫30文とし、そこからの定納額を84貫110文とする。「寛永6年(1629)新海神社領検地入之帳」によれば、神社領は65石9斗余となる。延宝元年(1673)には、99石7斗と増加する。⑧新海山神宮寺世代は、開祖は上宮太子であり、121代に明山法印をあげうる。⑨その会下には、長寿寺以下32ヶ寺をあげる。新海三社神社を除く神社には、上中込村鎮守の住吉大明神を筆頭に約330社を数えうる。その外、上野国世良田長楽寺末信濃国佐久松原村(佐久市小海町)の諏訪両社大明神別当藤島山清浄院神光寺世代に開祖円仁慈覚大師以下77代の現住法印俊彗までをあげる。最後に「当寺持堂宇他村之分」に稲子村の阿弥陀堂等を列挙し、「神光寺配下寺院之事」として梓村清水山高林院泉竜寺等をあげる。「佐久郡其侭草三」①「仏閣ノ部」として村ごとに寺院をあげる。例えば、田野口村では、新海山神宮寺をあげ、この寺は、真言というように宗派をみる。続いて寺領を記し、末寺をみる。東都円福寺末、延宝以前ハ京都御室仁和寺末のように、どこの末寺であるのかを記載する。続いて上中込村では2ヶ寺、大奈良村では1ヶ寺というように村ごとに寺院を記載する。続いて②「寺院世代之部」として、例えば松原村では、「天台宗の藤島山神光寺世代をあげ、開山ヨリ第七十七世委細神社之部ニ見ユ」と記載し、村ごとに寺院の世代をあげる。塩野村では、浅間山真楽寺世代をあげる。次いで、「真楽寺末寺会下三十一寺如左」として、軽井沢村では神宮寺、小田井村では宝珠院、間瀬口村では長泉寺などをあげる。春日村では、別府山蓮華寺の世代と什宝もあげる。その後は、小諸町・岩村田・前山村・余地村・耳取村・田野口村・高野町・中小田切村・内山村等と続く。「佐久其侭草四」ここでは、「惣高之部」として小宮山五丈の集編による郷や村の石高が記載される。最初に「与良郷」をみる。建久元年(1190)段階で305保丁あった。源頼朝へ上納した保丁取の古書にみえる。米53石5斗3升に該当する。黒沢某が所蔵する古書による。なお、保とは平安後期に出現し、中世を通じて荘・郷・別名と並存した。未開地や荒廃田の開発奨励策として登場した。これは、正慶元年(1332)には永300貫文、文禄4年(1595)には永300貫文、慶長15年(1610)には永300貫文、また、山の前分として永300貫文を計上する。永とは、永楽銭の略である。元和3年(1617)には、高526石8斗と山の前分として高5石4斗を計上。元禄15年(1702)には高1,146石となり、現今では小諸町の高内にみえる。このように、大諸郷以下の郷村の石高が列記され、最後に元禄段階で、未審の村々、供理里等の保丁・貫高・石高が列記される。

コンテンツ種別:

1

二次利用条件:

1

コピーライト表記:

長野県立歴史館

権利関係

CC0
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