/ 12
  • 1

  • 2

  • 3

  • 4

  • 5

  • 6

  • 7

  • 8

  • 9

  • 10

  • 11

  • 12

  • 回転角
  • 輝度
  • 彩度
  • コントラスト
  • ガンマ値
  •  / 12

Loading...

画像ダウンロード

ダウンロードするファイル形式を選択して、ダウンロードボタンをクリックしてください。

ファイル種別選択

引用について

引用機能は画像の任意の領域を切り出して、URLを生成する機能です。

画像上で切り出す領域を選択してから、「引用する」を選択してください。

輝度等の変更した値は引用には反映されません。

上図を登録します。

よろしければ「登録する」をクリックしてください。

登録に成功しました。
以下のURL・HTMLタグから画像にアクセスできます。

コンテンツ情報

詳細

資料コード:

03OD0624200500

施設番号:

3

資料種別:

20

タイトル:

小野古文書 写

タイトル(ヨミ):

オノコモンジョ ウツシ

サブタイトル:

サブタイトル(ヨミ):

分野:

System.Int32[]

場所(市町村名):

伊那郡

場所詳細:

緯度:

経度:

制作年(西暦):

制作年(西暦)詳細:

制作年(和暦):

制作年(和暦)詳細:

時代:

System.Int32[]

時代詳細:

制作者:

制作者(ヨミ):

大きさ(㎝):

資料解説:

高井郡保科郷(現長野市若穂)を発祥の地とする保科家代々の系譜と活躍ぶりを書いた木版本である。著者は保科広徳寺16世住職の楚賢で、文政11年(1828)の識語がある。楚賢は、保科家と広徳寺の由来に関心を持ち、20年間にわたって古書類や史跡を調べ、また会津藩主松平容敬に拝謁して、白銀10枚、蝋燭100個、葵紋の額などを拝領した。そこで寺の境内へ、保科家の武功の大略と当寺の由緒を石に刻んで立て、その徳を偲びたいという内容である。保科氏は井上氏の支族でのち高遠へ移り、武田・徳川に属して数々の戦功をあげて高遠藩主となった。徳川秀忠の子正之が養子となって会津23万石になり松平の姓を賜った。保科の姓は一族の正貞がつぎ、下総飯野藩主として続いた。本書刊行後、碑は建てられたが、保科氏の発祥は高遠だという抗議があり、寺社奉行で裁判の結果敗訴となった。碑は境内に埋められていたが戦後発掘、再建された。

コンテンツ種別:

1

二次利用条件:

1

コピーライト表記:

長野県立歴史館

権利関係

CC0
メニュー
サイドバー
前のページに戻る
次のページに進む
最初のページに戻る
最後のページに進む
画像の拡大
画像の縮小
ホームに戻る
幅に合わせて表示
高さに合わせて表示
画像左90度回転
画像を元の角度に戻す
画像右90度回転
画像を-5度回転
画像を5度回転
スライダーパネル
ページャーパネル